日本の感覚で昨日を仕事納めに勝手にして今日はすっかり家にいましたが、米国では基本的に年始年末休みは大晦日と元旦だけみたいです。去年はどうだったかまったく覚えていません。
外は雪が降っていて、夜中に除雪の音がします。働き者がいますね。
今日も仕掛けてある実験の圧力を変えるためだけにちょろっと大学に行きましたが、事務員や技官は仕事していました。教員はまったくいませんでした。教員は長期で休暇を取るみたいですね。学生もいませんし。
で、今日は映画を見てきました。娘の都合でマダガスカル2というDreamworksのCG映画ですが、まぁまぁでした。話にひねりがあまりなく、複線やどんでん返しに深みがありません。英語なのでちょうどよかったです。
その後、家でインターネットで日本の番組をだらだら見ました。テレビタックルの田母神問題特集を見ました。それから、ちょっと前にTBSでやった「あの戦争はなんだったのか?」みたいな特番を見ました。これは、政府、統帥権、言論界、マスコミ、国民、と、従来になく満遍なく広く責任を問うていてよかったと思います。
やっぱり、当時は選民的な慢心があった。そういう時代だったんだなぁと思います。
それから、言論の自由というものが非常に大切だと思いますね。
226で将校に同情的な世論とかはマスコミや言論界によって形成されたものなのでしょうか?今よりもマスコミの力は強大で、容易に世論を操作できたのではなかろうか?
日清・日露勝利で慢心していたところ、大東亜戦争で敗戦した精神的なショックは根深く、60年たった今なおその反動に突き動かされていますね。
一部マスコミが村山談話で国民を染め上げようとしているのはその現われだと思います。
いうなれば、慢心戒めよ、ということでしょう。
それはそうである。慢心は戒めねばならぬ。
そうやって自衛隊は骨抜きにされて、領海領空侵犯に対して実効的な対応ができず、拉致事件を放置したりしてきました。日本にオイルを運ぶ船を海賊から護衛するにも、制限がある。そもそも存在自体が違憲的である。
戦争はするべきではない。平和が一番いいに決まってます。であるからして、拉致を放置したことはやむを得ないか?日本にオイルを運ぶのにときどき海賊にとられて、船長(多分外国人)が拉致されるというコストは止むを得ないか?
中国が尖閣諸島を侵犯し、ロシアが領空を侵犯するのも止むを得ないか?一応ごっこスクランブルをするけど、撃つことはありえない、自衛隊。
じゃ、僕が率先して自衛隊に入って日本を守ります!とはなりません。
誰が日本のために命をかけますか?僕だって命惜しい。当然自衛官だって命は惜しい。家族もいる。子供もいる。(が、実際はイラク派遣では結構命がけで危なかったみたい。もっと日常的にも警察や消防は日本のために命をかけているとも言えるでしょう。頭が下がります。)
これまでこんなあいまいな状態で相応の平和は保たれてきたじゃないか?拉致は運が悪かった。オイルもちょっと金払って、多少のコスト高は目を瞑ろう、領海領空侵犯は好きにさせたらいいじゃないか。戦争するより百倍いい。それで日本は経済大国になった。経済戦争ではブッちぎりで勝利している。何が問題なのか?日本のために命をかける必要はないでしょ?むしろ軍隊があるから、敵を作るんじゃないの?
娘が生まれてこの世のものとは思えない喜びを感じていたところ、じぃちゃんが亡くなって、あぁ、じぃちゃんも僕の母親が生まれたときは喜んだんだろうなと想像したとき、日本が戦争に突き進んだことを完全に否定しきれなくなりました。じぃちゃんにも一分の理はあったに違いない、と。
自己につながる脈々とした歴史、将来に守るべき娘。それが想像できる範囲が日本という枠なのだと。日本の利益を超えて娘を守るとか、先祖の歴史を感じるとか、ないわけですね。だから日本を守るべきだというある一定の枠内の郷土愛というものが主張されるわけですね。
もちろんわかりやすいところでは、日本国のパスポートで外国にいられるわけで、外国での安全も保障されているわけです。娘が拉致されていいとかありえないんです、普通の平和的な状況でです。
はい、じゃぁま、よっぱらってるんで、尻切れトンボ。
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