水曜日, 2月 18, 2009

教会の機能

 ここ一年ほど日曜日に教会の礼拝に行っています。といってもキリスト教徒ではありません。1ヶ月に1回くらいの時もあって全然熱心じゃないです、というか信者じゃないのに行っている。
 一番の目的は朝一番の勉強会に出ることです。次に娘を教会の保育所で遊ばせること。それから日本人の友達とその娘さんと一緒にお昼を食べること。礼拝は実はぜんぜん意味分かんなくて聞きたくもないのですが、ま、みんなで歌を歌うのはそんなに悪いことじゃないですね、というかちょっと楽しい。
 全然洗礼を受ける気にもなりませんし、むしろ絶対キリスト教徒にはならないと思っているほどです。遠藤周作を読みふけって来たのでキリスト教自体には興味はあり、多分抵抗感も少ない方だとは思いますけども。
 で、まぁ、教会というものが米国社会の中で日本人が考えるようななんとなく怪しげな宗教のための施設というよりも、より現実的な社会的機能を持っていると感じられました。こういう施設があったら、ほんと参加してもいいじゃないかと思うような側面が強いです。
 まずなんといっても、朝の勉強会。朝9時から1時間ほど、勉強会が開かれます。ま、普通教会でやる勉強会というのは聖書の輪読会みたいなもので、もちろんうちが行っている教会もそういう勉強会もやってます。が、僕はそれには出たことがありません。うちはそれとはべつにもう一つ、大人向けの勉強会で、キリスト教の見方についてとか、キリスト教信仰の変遷とか、アウシュビッツの手記とか、ユダヤの歴史とか、そういうより一般的な社会科学的だったり歴史的だったりする本を読むという勉強会もやってまして、それに出てます。これは面白いですね。聖書を読むとかの抵抗感はこの場合全くないです。
 参加者はほとんどが老人です。講師?というかレジュメを作って来て勉強会を仕切る人はどうもボランティアでやってるイチ信者のようで、別にプロの研究者ではありません。しかし、この勉強会のために日頃から熱心に勉強していることが分かります。参加している人たちも単に興味を共有しているイチ信者たちです。みんな活発に発言します。なんで米国人はこんなに議論がうまいのでしょうか?話の流れもスムーズで、中身も濃い。日本じゃなかなかこんなに建設的にならないんじゃないでしょうか?ときどき発言をするも、日本じゃこうだったとかすごい偏った話をどうしてもしてしまうのですが、みなさんちゃんと拾ってくれて助かります。
 参加者は老人で話は比較的ゆっくり。若者のような変な単語は出てこず、日本で習ったような英語をしゃべってくれるので、普段より英語がよくわかります。
 言いたいことは教会はまず第一に地域社会のコミュニケーションの場になっているということですね。老人、子供がメインですが、壮年の大人が安心して任せられる場ですね。そして、勉強会のしきり屋さんとか、聖歌隊とか、寄付を集める人とか、ハンドベル隊とか、子供のミュージックティーチャーとか、いろいろ役割が分担されて、社会参加している実感が得られます。僕はただのVisitingなので全部提供を受ける立場で、そういう役割とかは与えられませんが。ときどき小額の寄付をします。
 また、一家の大黒柱が亡くなると教会をあげてその家族をサポートする機能なんかもあったりします。これは信仰うんぬん以前に現実的な問題へのまったくもってセーフティーネットとして機能します。
 子供の保育所もボランティアで行われています。子供への説教もまキリスト教に則ってるんですが、キリストの教えを守りましょうなんてのも、みんなを許してあげようね!みんな仲良くね!という道徳的教育的な側面が強く出てまして、普通にいいです。別にキリスト教である必要はないんじゃないかと思います。
 んでもって、みんなで握手して挨拶するとか、みんなで歌うとか、みんなで朝の報告会とか、そういう時間を共有すると。みんな仲良くなんてそんなのうそくさいですが、それを努力することでコミュニティーの力が強くなることを知っているというか、みんな大人だなぁとつくづく思います。
 ほんとキリスト教というものは米国の教会においてはほんと方便に過ぎなくて社会的な機能として現実的によく作用している、それが国とか政治とかから与えられているのではなくて、地域の住民が主体的に行っている。
 日本だとどうでしょうか?例えばプロ市民みたいな人が行政に申請してNPOを立ち上げるとかですか?ほんとそういうのに全く興味なかったのですが、米国で教会の人々を見て、僕も日本でそういうのに参加して地域社会にちょっとでも役立ちたいかもなぁと思いました。寄付でもいいし。

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